光秀以後

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記事
参考文献
本能寺の変後
1582
天正十年
   
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
明智勢、本能寺を取り囲み信長を討つ。信長、初めは弓を取って射たが、その後槍で戦い、肘に槍疵を被って引き退き、そばにつきそっていた女性たちを追い出し、御殿に火を懸け、殿中奥深く入り切腹。明智勢、引き続き二条新御所へ立て籠もった信忠を討つ。光秀、 辰刻(午前八時前後)、信長父子以下を討ち果たし落人探索を指示。山岡美作(景隆)・対馬 (景佐)兄弟が勢田の橋を焼き落としたので、光秀は坂本へ帰城。巳刻(午前十時前後)、安土へ光秀謀反が伝わる。夜になって山崎片家が自邸を焼き払い居城山崎城へ退去した
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
明智彌平次光遠(秀満)・明智勝兵衛・明智治右衛門・明智孫十郎・斎藤内蔵助利三を頭として取り巻いた。信長、弓を取り射伏せた後、十文字の鎌で戦い、数ヶ所疵を負って引き退き、美女たちをことごとく刺し殺して自ら火を懸け切腹した
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
光秀、京都本能寺に於いて信長を焼き討ち。晴豊、二条新御所へ行ったが軍勢が取り巻いて入れず、明智家臣の井上に頼んだが無理だった。誠仁親王、供奉衆と共に漸く二条御所を脱出。夕方に屋敷共を見物。首・死人数限りなしという状態であった
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
光秀、卯刻 (午前六時前後)に本能寺の信長を謀反により襲撃し信長は即時に討死す。信忠、二条新御所へ立て籠もった所へ明智軍が押し寄せ、討死。貞勝以下悉く討死。二条新御所の誠仁親王は辰刻(午前八時前後)に内裏へ移る。洛中騒動
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
順慶、今朝上洛の途中、信長は急に西国出陣とて既に安土へ帰った由につき帰国した。信長、京都で生害、信忠る生害、光秀と信澄が申し合わせた(「これは嘘」と追記あり)。今暁のことが昼十時過ぎに伝わった
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
光秀、早天に本能寺を襲撃。信長即時生害。信忠、二条新御所に立て籠もり生害す。貞勝親子三名、馬廻衆ら討死す。誠仁親王ら禁裏に避難。紹巴が輿を持ってきてお乗せした。本能寺・二条新御所等炎上、洛中・洛外驚騒。光秀は悉く討ち果たし未刻(午後二時前後) 大津へ下る。兼見、粟田口で光秀と対面し在所の安全を頼んだ(注)正本では紹巴が輿を持ってきた話、兼見が光秀に対面した話を削除
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
寛尊、信長が本能寺で生害と聞く。光秀、未明に謀反を為して四方を取り囲み攻撃する。光秀は今度西国への暇乞に人数をお目に懸けると謀略を企てた。信忠の滞在する妙覚寺へ押し寄せ、信忠、既に本能寺落居という注進を受けて二条新御所に移る。明智軍、二条新御所を包囲。信忠、籠もった二条新御所内より誠仁親王を御所外へ脱出させる。信忠軍、御所内より切って出て、三度も寄手を退散させるが、多勢に無勢で信忠らは討死す。これにより洛中洛外大騒動となる。この日中程に奈良へ注進があった
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
信長、背に刺さった矢を抜き薙刀で戦ったが腕に弾創を受けて部屋に引き籠もった。切腹したとも火を放って死んだともいう。信忠は親王の邸へ移り、親王は光秀の許可を得て内裏へ移った。信忠は一時間以上戦ったが明智軍が邸内に火を放ち焼死した。巡察師が信長に贈った黒人奴隷が信長の死後に信忠の邸で戦い、降伏し京都の教会へ身柄を預けられた
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
朝、家康火急に上洛。二十九日に信長が上洛したと聞きあわてて上洛とのこと(これは信長自害を知って計略を言って上洛したと追記あり)
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
家康、堺見物が終了した旨信長へ報告するため茶屋四郎次郎を使いとして一日に上洛させ、この日堺を出立し上洛。本多忠勝を先行させて上洛の途中に四郎次郎が京都から馬に乗って来て忠勝と枚方で行き合った。信長自害を知らされ二人は戻って飯盛山近辺で家康と出会って報告し、伊賀を越えて三河へ戻った「茶屋由緒記」
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
呉服師亀屋栄任、信長自害を家康に注進するため堺へ迎えに行った。その際、伊賀 越えで三河に帰国とのことで栄任は京都に家康手勢が居るとのことで京都へ戻り密かに手勢を集め、近江信楽へ下って御供した「呉服師由緒記」
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
光秀、美濃野口城主西尾光教へ信長・信忠父子を討ち果たしたので大垣城を占拠するように命じ、委細は山田喜兵衛に伝えさす
0年目
1582
天正十年
   6月 2日
6月2日
光秀、元親へ本能寺の変の成功を堺より上ノ坊に伝えさせる
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
光秀が丹波より夜襲をかけ、本能寺へ押し寄せ信長に腹を切らせた。信長は「城介 (信忠)の別心(謀反)か」と聞くと森乱丸が「明智のようだ」と答えた
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
蒲生賢秀、信長の上臈衆らを連れて未刻(午後二時前後)に安土を発ち近江日野城 へ退く
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
光秀、近江に進軍す
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
洛中騒動斜めならずという状況であった
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
英俊、京都からの注進で信長は本能寺にて、信忠は二条新御所にて生害したこと、菅屋長頼・村井三名・福富秀勝、小姓衆五、六百名が生害したこと、光秀は坂本城へ入城して大津・松本・瀬田(勢田)に陣取ったこと、藤孝が生害したという風聞があること、この日に大和衆は悉く大安寺・辰市・東九条・法花寺周辺に陣取ったことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
光秀、大山崎へ禁制を発行「離宮八幡宮文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
松平家忠、京都の酒井忠次より家康の命令として西国へ出陣あると通知を受ける。 酉刻(午後六時前後)に京都で光秀・信澄謀反により信長自害の旨大野より知らせを受ける
0年目
1582
天正十年
   6月 3日
6月3日
信孝、今朝阿波へ渡海のところ、信長生害のため岸和田から摂津へ陣替え
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
光秀、近江をことごとく制圧す
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
洛中騒動斜めならずという状況であった
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
英俊、順慶のもとへ南方衆と井戸一手衆が集結し、この日光秀のもとへ出陣すると聞く
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
家康、蒲生賢秀・氏郷へその城に堅固に立て籠もるとのことはもっともなことだ、 光秀成敗は安心すべきと伝える「山中文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
斎藤玄蕃助利堯、美濃瑞龍寺・千手堂寺・崇福寺へ禁制を発行「瑞龍寺文書」「善福寺文書」「崇福寺文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
秀吉、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に和睦の起請文を与える
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
家康、伊勢から大浜へ上がり岡崎に到着。松平家忠、迎えに行き、穴山梅雪が切腹したこと、信澄謀反は嘘であることを知る(こちらの手勢と雑兵共二百余で討たせたと追記あり)
0年目
1582
天正十年
   6月 4日
6月4日
徳川家康、三河岡崎に帰着し、直ちに武田家遺臣を甲斐へ派遣して工作を開始
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
晴豊、光秀が安土へ到着し安土に留まっているとの連絡を受ける
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
兼見、光秀が蒲生賢秀より安土城を明け渡され入城したことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
寛尊、光秀が安土城をはじめとする近江諸城を悉く掌握したと聞く。光秀へ経文・ 五百疋を、光秀家中の伝五・松田太郎左衛門の二名へも贈物と音信を送付
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
英俊、昨日山城へ出陣した軍勢が早々と大和に戻って来たこと、大坂で信澄が生害したこと、信澄は光秀の聟で一段逸物であったが信孝・長秀・蜂屋頼隆らの沙汰により自害したこと、伊賀は信雄の被官衆が開城したので無防備状況となり、牢人衆が入城したこと、四日に光秀が安土城に入城したこと、佐和山城には山崎片家が、長浜城へは利三が入城したこと、 山城から帰陣した軍勢を順慶が率いて近江に移動し光秀と手を合わせ一味となったことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
秀吉、中川清秀と福富秀勝の奮戦により信長・信忠は近江膳ヶ崎まで無事に難を逃れたこと、今、備前野殿まで到着し、今日備前沼を通る予定を報告「梅林寺文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
信澄、大坂城中で信孝・長秀によって生害。首が堺の北の橋に掛けられた
0年目
1582
天正十年
   6月 5日
6月5日
松平家忠、岡崎城へ出仕したところ早々に帰って出陣準備せよと命じられる。伊勢・尾張より家康へ使者が来ており味方せよとのことであろうと思う
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
兼見、晴豊より召喚状を受けて、即時晴豊に随行し禁裏の誠仁親王へ祗侯し対面す。 親王、直に兼見へ光秀への御使として下向し京都の治安維持を厳命する旨を命ず。兼見、親王の命を受けて明日さっそく出発することになり、緞子一巻を預かり禁裏を退出す (注)正本には光秀への命令の内容は記載されていない
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
誠仁親王、兼見を召し安土の光秀へ勅使として派遣を命ず
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
光秀、近江多賀神社へ禁制を下す「多賀神社文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
光秀、賀茂別雷神社へ禁制を下す「賀茂別雷神社文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
秀吉、姫路城へ入城「松井家譜」
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
秀吉、未刻(午後二時前後)、備中高松を撤収し備前沼に至る (注)日時は六月五日秀吉書状や六日杉若無心書状の記述に合わない
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
小早川隆景、桂左太・岡宗左(毛利氏家臣)へ信長父子が一日討ち果て、二日に大坂で信孝が自害し、信澄・光秀・勝家が共謀して討ち果たしたと報ず「萩藩閥閲録」
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
毛利輝元、満願寺へ信長親子三名が戦死した件は信澄に光秀・勝家が共謀して起こした事件であること、秀吉とは和談を締結した旨を報ず「毛利氏四代実録考証論断」
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
家康、岡部正綱に甲斐巨摩郡下山へ行き、城を普請すべきことを命ず。委細は左近左衛門が申す「寛永諸家系図伝」
0年目
1582
天正十年
   6月 6日
6月6日
松平家忠、八日に東三河衆が岡崎へ来るので一報あり次第出陣ある旨を酒井忠次より知らされる
0年目
1582
天正十年
   6月 7日
6月7日
兼見、御使として早々に安土へ向けて京都を出発。安土城に入城し光秀と対面、御使の趣旨を伝達し、朝廷より預かった巻物等を渡す。光秀は兼見へ今度の謀反の存分を雑談し、 蒲生賢秀が未だ出仕していないことを伝える。兼見、安土城を出て城下の町屋に宿泊す。錯乱していて不便であった(注)正本では兼見と光秀のやり取りを削除している
0年目
1582
天正十年
   6月 7日
6月7日
光秀、摂津開運寺へ禁制を下す「渡辺重雄氏所蔵文書」 この頃 オルガンティーノ、光秀の小姓に高山右近宛てにポルトガル語で「光秀に絶対味方するな」と書いた書状を偽って渡す
0年目
1582
天正十年
   6月 8日
6月8日
兼見、上洛するため早天に安土を発足す。光秀上洛のため、明日の摂津への軍事行動に備え明智軍は安土城を出動。先勢は山科・大津に布陣していた。兼見、吉田郷に帰宅し休息を取った後、誠仁親王に伺候して直接委細を上奏す(注)正本では、兼見が誠仁親王へ光秀との談合内容を上奏したことを削除
0年目
1582
天正十年
   6月 8日
6月8日
敵の軍勢が非常な速さで接近しつつあるとの伝言が京都から飛脚によって届けられ、 光秀は直ちに摂津・河内へと引き返すことにした
0年目
1582
天正十年
   6月 8日
6月8日
兼見、安土より上洛し、光秀よりの朝廷への御礼申入の意向などを上奏
0年目
1582
天正十年
   6月 8日
6月8日
秀吉家臣杉若無心、藤孝の家老松井康之へ秀吉が六日に姫路入城したこと、九日に 出陣することを通達「松井家譜」
0年目
1582
天正十年
   6月 8日
6月8日
毛利輝元、村上元吉へ秀吉と和睦して両軍撤退したこと、信長父子三人が京都で自害したこと、不慮の吉事とはこのことと伝える「村上文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 8日
6月8日
順慶、伊賀の喜多村出羽守へ家康の伊賀越えへの協力を賞す
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
兼見、早々に光秀から自筆の到来予告状を受ける。光秀、未刻(午後二時前後)に上洛す。兼見、光秀を迎える為に京都白川まで出向く。公家衆・摂家・清花が悉く迎え出ており、兼見はこの旨を光秀に通知したところ、光秀は無用であると辞退。光秀、両御所(正親町天皇・誠仁親王)へ銀子五百枚、京都五山と京都大徳寺へ銀子百枚ずつ、兼見へ銀子五十枚を進上。光秀、兼見邸小座敷に暫く逗留し方々注進を受けて手配する。兼見、光秀へ夕食を進上。紹巴・昌叱・心前が相伴した。光秀、夕食後に京都下鳥羽に出陣。兼見は誠仁親王と対面し、委細申し入れた。光秀への奉書が認められたので、兼見はその奉書を携えて即時下鳥羽の光秀陣所へ下向し、銀子の御礼と奉書を光秀へ示した(注)正本では光秀が両御所へ銀子を進上した件、兼見が下鳥羽の光秀陣所へ行った件を削除
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
晴豊、光秀が河内へ軍勢を派遣したと聞く。光秀、兼見を来訪し銀子五百枚を両御所へ進上。朝廷は光秀へ京都の治安維持をかたく申し付け、文にて光秀の銀子進上を賞す。また朝廷は兼見を下鳥羽南殿寺の光秀本陣へ派遣する
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
英俊、河内へ筒井軍が出撃する予定であったが俄かに延引したこと、郡山城に兵粮が搬入されたことを知る。どのように考えが変わったのか不審に思う
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
秀吉、信孝へ明石に着陣、明後日尼崎へ着く予定を伝える「坂井正秋所蔵文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
光秀、京都大徳寺および門前町に禁制を下す「大徳寺文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
光秀、藤孝・忠興父子へ軍勢の派遣を要請。五十日、百日の内に近国を固めた後には十五郎(光慶)、与一郎(忠興)に政権を引き渡す所存と伝える「細川家文書」
0年目
1582
天正十年
   6月 9日
6月9日
松平家忠、西陣の出陣少し延期の命令を受ける。水野忠重が京都に隠れていて帰ってきたことを知る この頃 寛尊、秀吉が毛利と和睦して近日上洛するという噂が頻繁であること、大坂では信澄と信孝が談合したが人数がそろわないこと、光秀よりの合力要請の使者が切々と到来し、五日より伝五が逗留すること、順慶より秀吉へ使者が派遣され入魂となったという噂があること、光秀が京都山崎八幡の洞ヶ峠に着陣したことを聞く
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
英俊、先日山城へ出撃した筒井軍が大和へ帰還したことを知り、秀吉が近日中に上洛することが決定したので順慶が覚悟替したとみる
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
兼見、光秀が摂津へ向けて軍事行動を起こしたという情報に接す(注) 正本では摂津を河内と書き換え
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
、美利輝元、福井十郎兵衛へ秀吉と和睦したこと、信長父子三人を光秀が討ち果たしたことを伝える
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
毛利輝元、岡宗左衛門へ信長父子三人討ち果たしたことは予想外のことで大利を得たと伝える「毛利氏四代実録考証論断」
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
秀吉、中川清秀へ明日摂津西宮辺りまで行って着陣の予定を告げる「福井市愛宕坂 茶道美術館所蔵文書」
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
松平家忠、十二日に出陣の旨酒井忠次より知らされる
0年目
1582
天正十年
*  6月10日
*6月10日
長宗我部元親家臣中与一兵衛(中島重房?)、石谷頼辰の堺からの書状に返書。早々に御上洛があるのは目出度い、元親の身上にもかかわるか、追々慶事を申し上げることを披露願いたいと告げる (年未詳)
0年目
1582
天正十年
   6月10日
6月10日
家康、本多信俊を織田信忠家臣の甲斐城主河尻秀隆のもとへ送り込む
0年目
1582
天正十年
   6月11日
6月11日
光秀、摂津より下鳥羽の本陣に戻り淀城普請に着手す
0年目
1582
天正十年
   6月11日
6月11日
英俊、藤田伝五が光秀の命を受けて順慶を訪問し合力の説得をするも同心を得られず、木津まで引き返したが順慶より呼び戻されたこと、順慶は既に秀吉へ村田某・今中某を使者として派遣し、合力の誓紙を提出したことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月11日
6月11日
秀吉、松井友閑へ一昨日明石を出発し、淡路洲本城を攻め落としたこと、夜中に兵庫まで着陣すること、直ちに尼崎まで打ち出すつもりであることを告げる「萩野由之氏所蔵文書」
0年目
1582
天正十年
   6月11日
6月11日
松平家忠、人足を出したが出陣は十四日まで延期の知らせがあり呼び戻す
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
光秀、紀伊雑賀五郷土橋平次へ高野山・根来寺・雑賀衆らが相談し和泉・河内へ 出撃することを督促、近江・美濃はことごとく平定したこと、義昭上洛の要請は承諾する旨を返書「森文書」
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
家康、甲賀の和田八郎(定教)へ今度の忠節を讃えて誓書を与える
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
家康、曾根昌世・岡部正綱をして甲斐中巨摩郡の加賀美右衛門へ安堵状を発す「古今消息集」
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
世上雑説が飛び交う状況である
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
兼見、光秀の敵が山崎より出勢し、勝龍寺城の西辺りに於いて足軽勢が遭遇し鉄放戦があったこと、近辺に放火したことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
英俊、秀吉が既に摂津まで猛勢にて迫っていること、また家康が既に安土に着陣したと聞く。明智軍が石清水八幡宮・山崎周辺に布陣していたが、淀周辺まで撤退したと聞く。昨日順慶が郡山城で国中の与力を集結させて血判起請を提出させたと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
寛尊、大坂にて信澄が生害したことを知る。その理由は惟任縁辺の故か謀反御存知かというものであった
0年目
1582
天正十年
   6月12日
6月12日
秀吉、摂津富田に着陣
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
早天に光秀の陣所が敗軍したと聞く。京中は錯乱状態
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
光秀、山崎において合戦し即時敗北。伊勢貞興以下三十余人討死。信孝・秀吉ら、南方より進軍し明智軍と合戦す。二条屋敷放火。首本能寺に曝される
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
宗及、光秀が山崎の戦いで敗れ、勝龍寺城に逃げ込んだが、夜に抜け出し途中で討ち取られたと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
英俊、勝龍寺城落城、光秀は坂本退くと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
摂津衆三人は秀吉が三レグワ(十五キロ)ほどの所まで来ていることを知り、中川清秀が山の手、池田恒興が淀川沿い、高山右近が中央の山崎村へ進軍した。明智軍は八千ないし一方、羽柴軍は二万以上、高山右近は一千に満たない軍勢。右近は光秀が村の門まで進軍してきたため秀吉軍の到着を待てずに門を開けて明智軍を攻撃し二百を討った。清秀・恒興軍も参戦して明智軍は逃げ始めた。これがきっかけとなって正午に明智軍は敗退。敗軍は午後二時に京を通り、通過に二時間要したが、盗賊らに襲われて坂本に着けなかった者が多かった。光秀は午後勝龍寺城へ入り、羽柴軍は全軍で取り囲み、都に聞こえるほど終夜銃を撃った。光秀は宵の口に坂本に向かって逃げ、農夫らに殺されて首を切られた
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
この申刻(午後四時前後)より京都山崎に於いて鉄放の音が数刻にわたり止まなかった。兼見、京都五条口より落武者たちが愛宕郡白川一乗寺周辺へ逃走し途中にて一揆に遭遇した模様で或者討捕、或者剥取のこと、京都からの通知により山崎表に於いて合戦があり光秀が敗軍して勝龍寺城に入ったこと、明智軍の戦死者は数知れないことを知る。兼見、堅く自宅の門を閉ざし門内に於いて用心していたが、吉田郷へは落人が一人も到来しなかった。山崎合戦での南方の諸勢とは神戸信孝・秀吉・池田恒興・長秀・蜂屋頼隆・堀秀政・矢部家定・中川清秀・多羅尾光俊らで、二万余の軍勢で勝龍寺城を包囲したことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
秀吉、浅野長政へ戦況を報ず。晩に山崎に陣取り、高山右近・中川瀬兵衛・久太郎(堀秀政)勢へ明智軍段々に人数をそろえて切りかかる所、道筋は右近・瀬兵衛・久太郎切り崩し、南から池田紀伊守・秀吉、山手は羽柴秀長・黒田官兵衛切り崩し、勝龍寺城を取り囲んだ「浅野家文書」 「金井文書」
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
秀吉・長秀、順慶へ明日山城西岡へ陣替えするので山城へ出陣すべき旨を伝える「名張藤堂家文書」
0年目
1582
天正十年
   6月13日
6月13日
松平家忠、西陣出陣のために岡崎城へ出仕
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
信孝・秀吉、青龍寺(勝龍寺)表で明智軍を討ち果たし、上洛
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
光秀、昨夜勝龍寺城を退散す。津田越前入道、兼見を訪問。この度光秀が兼見邸に到来し、禁裏と京都五山へ銀子配分した件が織田側で執沙汰され曲事とされているので織田三七郎御使として糺明のために到来したという。禁裏へ参内し誠仁親王と対面し、親王へ詳細を上奏した。親王、信孝陣所へ御使を派遣す。施薬院全宗に相談したところ秀吉へさっそく事情を申し入れるべきであるとのことであった。全宗使者・兼見使者、桑原貞也のもとへ派遣。 兼見、使者より桑原貞也の返事を受けた。その内容とは、津田越前入道は信孝が派遣したのではなく信孝へ問い合わせたところ、津田越前入道の件は御存知無きことで、津田越前入道に問貴の使者を派遣したところ、この朝より外出し行方不明とのこと。もし再度津田越前入道が到来した場合には留めて織田側に注進すべきという存分を受けて兼見は安堵した
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
英俊、井戸良弘が裏帰って山城槇島城を順慶に渡すため早旦に井戸重郎と一手衆を退城させたこと、越智・楢原・万歳以下悉く出立したこと、明日順慶の出京が決定したと聞 く 六月十四日 寛尊、摂津衆・池田恒興・秀吉が上洛し京都山崎に於いて合戦があったこと、明智軍が敗軍し即時落居したこと、勝龍寺城陥落したこと、秀吉の軍勢が京着したことを知る。光秀が醍醐で生害し伝五も腹切したことを知る。数万人が戦死し、山崎から醍醐周辺まではあちこちに屍が散乱しており数は不明であることを知る
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
光秀の首が本能寺に届いた。首三千が曝された
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
家康、美濃の吉村又吉郎(氏吉・脇田城主)へ信長の弔いのため上洛するので今日鳴海まで出陣したので協力するよう求める「吉村文書」
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
家康、佐藤六左衛門尉(秀方・鉈尾山城主)へ光秀を討ち果たす覚悟につき、日根野弘就・金森長近と共に上洛に協力すべきを命ず「譜牒余録」
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
本多忠勝、高木権右衛門(貞利・今尾城主)へ家康が京都へ攻め上る意思がある旨を通知(光秀討ちは記していない)「高木家文書」
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
伊勢から白子まで家康の御供をした伊賀者が尾張鳴海にて家康に召し抱えられた 「伊賀者大由緒記」
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
松平家忠、尾張鳴海まで出陣
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
明智秀満、安土城を退去し、明智の婦女子らのいる坂本城へ入る。信雄、安土城の天主に放火させ、市に火をつけるように命ず。秀吉軍が坂本城に到着するが、既に多数の者が城から逃亡していた
0年目
1582
天正十年
   6月14日
6月14日
河尻秀隆、家康から派遣された本多信俊を殺害
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
兼見、安土城が焼失し安土山下からの類火と聞く。神戸信孝へ御礼の為に吉田兼治を派遣。光秀が京都醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が神戸信孝のもとへ持参したこと、高山次右衛門が坂本城天主に放火して切腹したと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
晴豊、勧修寺家領の百姓が光秀の首を届け出たこと、本能寺に光秀むくろと首が晒され見物数知れず、三千程の首があることを聞く
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
英俊、十三日に明智軍が千余人損傷し、わずか三十余名が坂本へ帰ったこと、昨日より秀吉が大津まで進撃したこと、今日比叡山の東の方が大焼というので坂本城が焼けたこと、今朝順慶自身が千余の軍勢を率いて出陣したこと、秀吉は順慶の行動を曲事としたこと、先日の合戦にて光秀の討死は確実であろうことを聞く
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
言経、光秀が醍醐の辺りで郷人一揆に討たれ、首が本能寺に届けられたことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
北条氏政、幸田某をして渡邊庄左衛門尉を甲斐へ派遣し工作を命ず「諸国古文書抄」
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
松平家忠、旗本へ出向いたところ光秀が京都で信孝・秀吉・長秀・池田恒興に討ち取られたことを伊勢織田家より注進があったことを聞く
0年目
1582
天正十年
   6月15日
6月15日
明智秀満、一族の婦女・小児を殺し、坂本城に放火して切腹。明智の二子(長子は十三歳)は死んだというが逃げたという者もある
0年目
1582
天正十年
   6月16日
6月16日
兼見、神戸信孝・其外諸勢が安土城に下向したこと、光秀の首・胴体が本能寺に曝されたことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月16日
6月16日
松平家忠、明日津嶋へ進軍すると知らされる
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
宗及、利三が車ざた(合議による裁定)の上、即、首を斬られたことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
言経、今度謀反随一の利三が近江堅田に牢籠しているところを捕獲され、洛中を 車にて引き回され六条河原で訴されたことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
早天に信長討ち談合衆の利三が生け捕られて車にて京都町中を引き回された。晴豊は見物したが、見物人は予想以上に多かった
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
英俊、光秀が十三日に勝龍寺城を逃れ出て、山科で一揆に叩き殺され、首も胴も京都へ運ばれたことを知る。光秀は細川兵部太夫の中間であったのを取り立てられ、信長の厚恩により召し抱えられたが、大恩を忘れたので天命であった。利三が生け捕られて安土に送られたと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
家康、曾根昌世・岡部正綱らをして窪田助丞(正勝)へ甲斐北巨摩郡を安堵する 「古文書」
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
美濃の遠藤秀繕、安養寺へ本能寺の変後の諸状況を報告、安土は光秀の子の自然が立て籠もっているなど「安養寺文書」
0年目
1582
天正十年
   6月17日
6月17日
酒井忠次の手勢が津嶋へ陣替えした
0年目
1582
天正十年
   6月18日
6月18日
兼見、利三が捕獲されて上洛し洛中を車に乗せられて引き回され六条河原にて刎首されたこと、光秀と同様に本能寺に曝されたこと、堅田の猪飼野半左衛門が捕縛したことを知る
0年目
1582
天正十年
   6月18日
6月18日
英俊、本能寺に光秀を始め首三千程が曝され、十七日に利三が京都を引き回されて斬首されたと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月18日
6月18日
光秀伯父の妻木藤右衛門、近江坂本西教寺にて自害「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」
0年目
1582
天正十年
   6月18日
6月18日
甲斐の国衆一揆、河尻秀隆を殺し織田軍三千人を討ち取る。甲斐織田軍は崩壊 六月十九日 秀吉、高木彦左衛門(貞久)へ十三日に明智と一戦し悉く討ち果たし首三千余討ち取ったこと、光秀は山科藪中に隠れていたところを百姓が首を切り捨て置いたのを見つけたこと、利三は二人の子と逃げる途中を郷人が子の首を切り利三を生け捕り、車で引きまわしの上、首を切ったこと、坂本城では光秀の子二人と明智彌平次が切腹し天主が焼け落ちて死んだこと、近江の光秀加担者は首を切るか助命して召し抱えるかしたこと、明日美濃へ入る予定であることを告げる「高木家文書」
0年目
1582
天正十年
   6月19日
6月19日
松平家忠、秀吉より上方のことは片付いたので早々に帰陣せよと申入れがあったため、津嶋から鳴海まで帰った
0年目
1582
天正十年
   6月21日
6月21日
家康、遠江衆・東三河衆を引き連れて三河へ帰陣
0年目
1582
天正十年
   6月22日
6月22日
兼見、信孝の諸勢が美濃へ下向することを知る
0年目
1582
天正十年
   6月23日
6月23日
兼見、二十二日より桑原貞也・村井清三が奉行となって粟田口の東に光秀・利三の首塚を昨日から築造していることを知る
0年目
1582
天正十年
   6月25日
6月25日
秀吉、高田長左衛門へ尾張・美濃における光秀残党掃討終了したこと、近日中に上洛し信長の葬儀を執行することを通達「古今消息集六」
0年目
1582
天正十年
   6月26日
6月26日
秀吉、一益へ山崎での合戦、光秀の死、坂本城の落城、利三捕縛、近江平定 (以上は六月十九日付け高木彦左衛門宛書状とほぼ同文)、阿閉父子三人および一類女子共の首を刎ねたこと、尾張を平定して清須城に逗留していることを告げる「大阪城天守閣所蔵文書」
0年目
1582
天正十年
   6月28日
6月28日
晴豊、明智秀満の親が生け捕りにされたと聞く
0年目
1582
天正十年
   6月29日
6月29日
晴豊、秀満の女房衆「北□の姉」が生け捕りにされたと聞き引き取ることにする。継子二人は親元に引き取らせることにする
0年目
1582
天正十年
   6月29日
6月29日
兼見、福知山城に在城していた明智秀満の親が捕獲され上洛したことを知る 七月二日 言経、粟田口に光秀の首と胴がつながれ磔にされたこと、利三も同様にされたこと、その他首三千余の首塚を同所に築いたこと、今日明智秀満の父六十三歳が召し取られ同所に磔にされたことを知る
0年目
1582
天正十年
   7月 2日
7月2日
兼見、明智秀満の親が粟田口で磔にされたことを知る
0年目
1582
天正十年
   7月11日
7月11日
秀吉、藤孝・忠興へ信長不慮の事態に対して比類無き覚悟頼もしく、身上見放すことはない旨の起請文を提出「細川家文書」
0年目
1582
天正十年
   7月11日
7月11日
秀吉、松井康之へ忠興への加増分の三分の一の領地を与える旨を命ず「細川家文書」
0年目
1582
天正十年
   7月11日
7月11日
秀吉、鍋島直茂へ本能寺の変により毛利氏と和睦締結したこと、明智与党全滅磔刑に処したこと、国々へ従来の如く静謐を申し付けて九日に上洛したこと、近日中の姫路帰城を通知。南蛮帽子の贈答を謝す「鍋島家文書」
0年目
1582
天正十年
   7月24日
7月24日
兼見、秀吉が丹波亀山へ下向と聞く
0年目
1582
天正十年
   8月 3日
8月3日
宗及、明智掃部、道設を招いて茶会
0年目
1582
天正十年
   8月13日
8月13日
秀吉、浅野長吉・杉原家次を京都奉行に任命
0年目
1582
天正十年
  10月15日
10月15日
秀吉、大徳寺において信長の葬儀を執り行う
0年目
1582
天正十年
  10月15日
10月15日
秀吉、『惟任退治記』を公表し怨恨・野望・単独犯行を公式化
0年目
1582
天正十年
  11月 1日
11月1日
秀吉、石川数正へ勝家・信孝の謀反への対応を家康へ説明するよう返報
0年目
1582
天正十年
  12月 4日
12月4日
前の美濃守護土岐頼芸、武田滅亡後に頼った稲葉一鉄の領地美濃岐礼村で没す 「稲葉家譜」 (注)以上はWEB公開中の「明智光秀全史料年表」から抜粋・転記
0年目
1582
天正十年
   
稲葉一鉄、斎藤利三の妻子(福を含む)を匿う 月 娘玉、味土野に幽閉 月 秀吉、山城検地
0年目
1583
天正十一年
   
1年目
1583
天正十一年
   1月20日
1月20日
利三の子斎藤利宗、石谷頼辰へ長宗我部元親が利三の妻と子を稲葉一鉄のもとから引き取るとのことだが稲葉一鉄の意向によると伝える「石谷家文書」
1年目
1583
天正十一年
   2月 5日
2月5日
兼見、信長末子で秀吉の養子となっていた秀勝の病気平癒を祈祷。秀勝は亀山城におり、昨冬の出陣以来患っている
1年目
1583
天正十一年
   2月26日
2月26日
宗及、若狭屋宗啓を招いて茶会、用いた珠徳の茶杓は以前光秀へ貸したものが宗啓に返却され、堺へ来る際に持参したもの
1年目
1583
天正十一年
   3月15日
3月15日
稲葉一鉄、石谷頼辰へ利三の妻と連れ子六、七人を匿っているが見捨て難く自分の側に置くと告げる「石谷家文書」
1年目
1583
天正十一年
   3月18日
3月18日
斎藤利宗、石谷頼辰へ稲葉一鉄が見捨て難いと言って土佐行きを許さないと伝える「石谷家文書」
1年目
1583
天正十一年
   4月24日
4月24日
秀吉、北ノ庄で勝家を滅ぼす。その後、織田信孝を自害へ追い込み織田家臣の筆頭に立つ
1年目
1583
天正十一年
   6月 4日
6月4日
木俣守勝、石谷頼辰へ長宗我部元親が徳川家康に忠節を尽くすように求める「石谷家文書」
1年目
1583
天正十一年
   6月 9日
6月9日
明智與三兵衛三存、某(宛所欠)へまくわ瓜一籠の礼を述べる「常在寺文書」
1年目
1583
天正十一年
   9月
9月
大坂城の築城開始
1年目
1583
天正十一年
   
秀吉、山城・河内・近江・越前・加賀・能登検地
1年目
1584
天正十二年
   
2年目
1584
天正十二年
   
小牧長久手の戦い
2年目
1584
天正十二年
  10月
10月
秀吉、正親町天皇のための仙洞御所の造営を開始
2年目
1584
天正十二年
  11月
11月
秀吉、小牧長久手の戦いで織田信雄を担ぐ家康と戦って不利な状況であったが、信雄と和睦し、続いて家康とも和睦し織田家を凌ぐ地位を得た。
2年目
1584
天正十二年
   
秀吉、山城・河内・近江・美濃・越前検地
2年目
1584
天正十二年
   
玉、宮津へ帰還
2年目
1585
天正十三年
   
3年目
1585
天正十三年
   3月
3月
秀吉、和泉・紀伊制圧
3年目
1585
天正十三年
   6月
6月
秀吉、四国制服を開始
3年目
1585
天正十三年
   7月
7月
秀吉、関白に任官
3年目
1585
天正十三年
   8月 6日
8月6日
長宗我部氏、秀吉に降伏
3年目
1585
天正十三年
   8月
8月
秀吉、佐々成政を降伏させる
3年目
1585
天正十三年
  閏8月
閏8月
秀吉、畿内近国の大幅な知行替を実施し権力の安定化を図る
3年目
1585
天正十三年
   9月
9月
秀吉、「唐入り」の意思を初めて表明(家臣一柳末安宛)
3年目
1585
天正十三年
   
秀吉、山城・大和・河内・近江・紀伊検地
3年目
1586
天正十四年
   
4年目
1586
天正十四年
   3月
3月
秀吉、イエズス会宣教師コエリョに大陸征服の意思を告げ、軍艦二隻の調達を要求する
4年目
1586
天正十四年
   8月
8月
秀吉、安国寺恵瓊と黒田孝高に九州平定後の明征服の心得を指示
4年目
1586
天正十四年
   
秀吉、対馬の宗義調に、千利休を使者として朝鮮出兵の意思を告げる
4年目
1586
天正十四年
  10月
10月
徳川家康、大坂城で秀吉に謁見
4年目
1586
天正十四年
  12月
12月
秀吉、太政大臣を兼任し、豊臣姓を受ける
4年目
1586
天正十四年
   
秀吉、山城・大和・河内・和泉・伊予検地
4年目
1586
天正十四年
   
玉、大坂に転居
4年目
1587
天正十五年
   
5年目
1587
天正十五年
   1月22日
1月22日
元親、斎藤利宗へ戸次川で頼辰が討死したこと、藤堂高虎が上洛のため土佐に宿泊するので、利宗の母への取り持ちを依頼。津戸右衛門は異議無い旨を伝える
5年目
1587
天正十五年
   5月
5月
島津氏、秀吉に降伏し九州平定完了
5年目
1587
天正十五年
   6月
6月
秀吉、対馬の宗氏に朝鮮国王を服属させるように命ず 宣教師の国外退去を命じる(バテレン追放令)
5年目
1587
天正十五年
   7月
7月
肥後一揆勃発
5年目
1587
天正十五年
   7月
7月
秀吉、刀狩令発布
5年目
1587
天正十五年
  12月
12月
秀吉、関東・奥羽の諸大名に戦闘行為の停止を命じる
5年目
1587
天正十五年
   
秀吉、楊氏と、大和・越前・越後・伊予・土佐・豊前・筑前・筑後・肥後検地
5年目
1587
天正十五年
   
玉、受洗し、ガラシャ名をもらう
5年目
1588
天正十六年
   
6年目
1588
天正十六年
   4月
4月
後陽成天皇、聚楽第に行幸
6年目
1588
天正十六年
   7月
7月
刀狩令・海賊禁止令発布
6年目
1588
天正十六年
   
秀吉、土佐など検地
6年目
1588
天正十六年
   
大徳寺住持古渓宗陳、秀吉の怒りを買って博多に流罪、博多商人島井宗室に庇護される。
6年目
1589
天正十七年
   
7年目
1589
天正十七年
   8月
8月
博多の僧景轍玄蘇が正使、宗義智が副使となり、博多商人島井宗室らと朝鮮へ渡り、朝鮮国王へ朝鮮通信使の日本への派遣を要請
7年目
1589
天正十七年
   
秀吉、土佐など検地
7年目
1589
天正十七年
   
利休の働きかけにより、古渓宗陳許されて京都に帰る
7年目
1590
天正十八年
   
8年目
1590
天正十八年
   7月
7月
秀吉、小田原城の北条氏を降服させる
8年目
1590
天正十八年
   8月
8月
秀吉、奥州仕置を終えて天下を統一
8年目
1590
天正十八年
   8月
8月
秀吉、陸奥・出羽の検地を開始、出羽で反検地の一揆勃発
8年目
1590
天正十八年
  10月
10月
陸奥一揆勃発
8年目
1590
天正十八年
  11月
11月
秀吉、朝鮮通信使を聚楽第にて引見、征明嚮導(明征服の先導)を命ずる国書を与える
8年目
1590
天正十八年
   
秀吉、土佐など検地
8年目
1591
天正十九年
   
9年目
1591
天正十九年
   2月
2月
朝鮮通信使帰国復命、同行した景轍玄蘇らが征明嚮導を仮途入明(明へ入りたいので道を貸してほしい)にすりかえて朝鮮側と折衝
9年目
1591
天正十九年
   2月
2月
千利休、秀吉に切腹を命じられる
9年目
1591
天正十九年
   8月
8月
身分統制令が発せられる
9年目
1591
天正十九年
  10月
10月
肥前・名護屋城の築城開始 秀吉、全国の大名より御前帳を徴収
9年目
1591
天正十九年
  12月
12月
秀吉、関白を秀次に譲り、太閤と称す
9年目
1592
天正二十年・文禄元年
   
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   1月
1月
秀吉、諸大名に朝鮮出兵を命ずる諸大名から人質を徴する命令も出される
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   3月
3月
全国的戸口調査である六十六ヶ国人掃令出される
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   4月
4月
日本軍、釜山に上陸
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   5月
5月
漢城を占領
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   5月
5月
半ば秀吉、関白秀次に二十五ヶ条の覚書を出し、後陽成天皇の北京移住、秀次の中国関白就任の構想を示す 薩摩島津家の梅北盛定(国兼)ら七百余名、朝鮮出兵を拒否して蜂起
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   6月
6月
初め秀吉、徳川家康・前田利家の諫止により自身の朝鮮渡海を延期
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   7月
7月
明軍が参戦
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   7月
7月
半ば 石田三成・大谷吉継・増田長盛らの朝鮮奉行、ソウルに着陣
10年目
1592
天正二十年・文禄元年
   8月
8月
明軍と日本軍の間で和平が約される
10年目
1593
文禄二年
   
11年目
1593
文禄二年
   4月18日
4月18日
小西行長、明の使者の和議を容れ漢城を撤退
11年目
1593
文禄二年
   6月27日
6月27日
秀吉、和議七ヶ条を示す
11年目
1593
文禄二年
   8月 3日
8月3日
淀、秀頼を生む
11年目
1593
文禄二年
   
家康、菅沼藤蔵に土岐氏を継承させて従五位下山城守に叙任
11年目
1594
文禄三年
   
12年目
1594
文禄三年
   3月 7日
3月7日
秀吉、伏見城を築城
12年目
1594
文禄三年
   
この年全国検地が行われる
12年目
1595
文禄四年
   
13年目
1595
文禄四年
   1月
1月
半ば秀吉、朝鮮在陣の諸大名に来年、関白秀次が朝鮮へ渡海するための城々を確保し、 兵糧米を備蓄することを命ず
13年目
1595
文禄四年
   4月
4月
末 小西行長、明より冊封使が来る旨を秀吉に知らせる
13年目
1595
文禄四年
   7月 8日
7月8日
秀吉、秀次の官職を奪い高野山へ追放
13年目
1595
文禄四年
   7月15日
7月15日
秀次、自害
13年目
1595
文禄四年
   8月 2日
8月2日
秀吉、秀次の妻子を処刑
13年目
1595
文禄四年
   
秀吉、土佐など検地
13年目
1596
文禄五年・慶長元年
   
14年目
1596
文禄五年・慶長元年
   6月半ば
6月半ば
明の日本冊封副使、大坂に至る
14年目
1596
文禄五年・慶長元年
   8月半ば
8月半ば
日本冊封正使、堺に至る
14年目
1596
文禄五年・慶長元年
   9月
9月
初め秀吉、明使を大坂城で謁見し激怒。朝鮮再出兵を命ず
14年目
1597
慶長二年
   
15年目
1597
慶長二年
   2月 1日
2月1日
日本軍、朝鮮に上陸
15年目
1597
慶長二年
   9月
9月
李舜臣の朝鮮水軍が日本軍を破る
15年目
1597
慶長二年
  12月
12月
明・朝鮮連合軍が蔚山城を攻撃
15年目
1597
慶長二年
   
秀吉、土佐など検地
15年目
1598
慶長三年
   
16年目
1598
慶長三年
   3月
3月
秀吉、醍醐寺で花見を行う
16年目
1598
慶長三年
   8月11日
8月11日
秀吉没す
16年目
1598
慶長三年
  10月初め
10月初め
徳川家康ら五大老、石田三成ら五奉行、秀吉の死により、朝鮮在陣の日本軍に和議をまとめて帰国せよと指示
16年目
1598
慶長三年
  12月
12月
日本軍、朝鮮から撤兵
16年目
1598
慶長三年
   
太田牛一の『信長公記』成立
16年目
1599
慶長四年
   
17年目
1599
慶長四年
   
家康、宗義智に朝鮮との和議交渉を命ず
17年目
1600
慶長五年
   
18年目
1600
慶長五年
   
ガラシャ、大坂細川屋敷にて没
18年目
1600
慶長五年
   9月
9月
家康、関ヶ原で石田三成らを破る
18年目
1603
慶長八年
   
21年目
1603
慶長八年
   2月
2月
家康、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く
21年目
1603
慶長八年
  11月
11月
家康、朝鮮人捕虜数百人を送還
21年目
1604
慶長九年
   
22年目
1604
慶長九年
   7月
7月
斎藤利三の娘福、徳川家光を産む
22年目
1604
慶長九年
   
朝鮮、宗義智の要求を容れ、対馬島民の釜山浦における貿易を許可
22年目
1605
慶長十年
   
23年目
1605
慶長十年
   3月
3月
家康、伏見城にて朝鮮使者を引見し、側近本多正信らに和議の協議をさせる
23年目
1605
慶長十年
   4月
4月
秀忠、将軍宣下
23年目
1606
慶長十一年
   
24年目
1606
慶長十一年
   7月
7月
朝鮮使者、国交回復の前提条件として家康から朝鮮へ国書を送ることと陵犯した賊を縛送することを要求
24年目
1607
慶長十二年
   
25年目
1607
慶長十二年
   5月
5月
朝鮮から回答兼刷還使(最初の朝鮮通信使)が江戸城に登城し、将軍秀忠に国書(家康からの国書に対する返書)と進物を呈す
25年目
1612
慶長十七年
   
30年目
1612
慶長十七年
   
小瀬甫庵『甫庵信長記』成立
30年目
1613
慶長十八年
   
31年目
1613
慶長十八年
   
『信長公記』の作者太田牛一没(自筆の『信長公記』池田家本をこの時まで修正していたとみられる)
31年目
1614
慶長十九年
   
32年目
1614
慶長十九年
  10月
10月
大坂冬の陣
32年目
1615
慶長二十年・元和元年
   
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
   5月
5月
家康、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす。七日、大坂城炎上し、秀頼自決、二十三日、秀頼の一子国松首、六条河原で刎ねられる
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
   7月
7月
家康、秀吉を祀る豊国神社を廃絶
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
   
家光、世嗣に決定
33年目
1615
慶長二十年・元和元年
   
『川角太閤記』成立(一六二四にかけて) (注)寛永六年(一六二九)以降とする研究者もいる。
33年目
1616
元和二年
   
34年目
1616
元和二年
   4月
4月
家康没す。
34年目
1623
元和九年
   
41年目
1623
元和九年
   7月
7月
家光、三代将軍に就任
41年目
1626
寬永三年
   
44年目
1626
寬永三年
   
『甫庵太閤記』成立 (『信長公記』天理本は寛永年間に写本が作られた)
44年目
1629
寬永六年
   
47年目
1629
寬永六年
  10月
10月
福、春日局号、従三位を得る
47年目
1632
寬永九年
   
50年目
1632
寬永九年
   5月
5月
細川忠利、肥後移封
50年目
1633
寬永十年
   
51年目
1633
寬永十年
   6月
6月
武家諸法度改定
51年目
1634
寬永十一年
   
52年目
1634
寬永十一年
   1月
1月
春日局、麟祥院の法号を受ける
52年目
1637
寬永十四年
   
55年目
1637
寬永十四年
  10月
10月
島原・天草一揆勃発
55年目
1641
寬永十八年
   
59年目
1641
寬永十八年
   2月
2月
寬永諸家系図伝編纂命令【福田】
59年目
1641
寬永十八年
   8月
8月
家綱(家光長男)誕生
59年目
1643
寬永二十年
   
61年目
1643
寬永二十年
   9月
9月
春日局没す
61年目
1643
寬永二十年
  10月
10月
天海僧正没
61年目
1646
正保三年
   
64年目
1646
正保三年
   1月
1月
家光側室お玉、綱吉を出産
64年目
1649
慶安二年
   
67年目
1649
慶安二年
   
大坂夏の陣の敗将大野治房の妻子五人が摘発され、男子三人は打首となる
67年目
1649
慶安二年
   3月
3月
後藤又兵衛の子捕縛
67年目
1651
慶安四年
   
69年目
1651
慶安四年
   4月
4月
德川家光没す
69年目
1651
慶安四年
   8月
8月
家綱将軍宣下
69年目
1680
延宝八年
   
98年目
1680
延宝八年
   5月
5月
家綱没
98年目
1680
延宝八年
   8月
8月
綱吉将軍宣下
98年目
1693
元禄六年
   
111年目
1693
元禄六年
   
『明智軍記』の刊行始まる
111年目
1702
元禄十四年
   
119年目
1702
元禄十四年
   3月
3月
浅野長矩、吉良義央に傷害
119年目
1704
元禄十七年・宝永元年
   
123年目
1704
元禄十七年・宝永元年
   
福知山御霊神社へ光秀合祀
123年目
1709
宝永六年
   
127年目
1709
宝永六年
   1月
1月
綱吉没
127年目
1746
延享三年
   
164年目
1746
延享三年
   
熊本細川家、家記 (『綿考輯録』)編纂
164年目
1771
明和八年
   
189年目
1771
明和八年
   
明田理右衛門、東山三条白川筋の明智光秀の墓を引き取る
189年目
1797
寬政九年
   
215年目
1797
寬政九年
   
『給本太閣記』
215年目
1853
嘉永六年
   
271年目
1853
嘉永六年
   
日米和親条約
271年目
1858
安政五年
   
276年目
1858
安政五年
   
天津条約・安政五ヶ国条約
276年目
1867
慶応三年
   
285年目
1867
慶応三年
  10月
10月
将軍慶喜、大政を奉還
285年目
1868
慶応四年・明治元年
   
286年目
1868
慶応四年・明治元年
  閏4月
閏4月
明治天皇、豊国神社の再興を布告
286年目
1868
慶応四年・明治元年
  10月
10月
明治維新。明治に改元
286年目
1871
明治四年
   
289年目
1871
明治四年
   9月
9月
日清修好条規
289年目
1874
明治七年
   
292年目
1874
明治七年
   5月
5月
台湾出兵
292年目
1875
明治八年
   
293年目
1875
明治八年
   
京都東山に豊国神社の社殿が再建される
293年目
1876
明治九年
   
294年目
1876
明治九年
   2月
2月
江華条約(日朝修好条規)
294年目
1877
明治十年
   
295年目
1877
明治十年
   2月
2月
西南戦争勃発
295年目
1880
明治十三年
   
298年目
1880
明治十三年
   
教科書に秀吉礼賛の書である陸軍省版『日本略史』をもとにした『新編日本略史』が書かれ、唐入りが絶賛される
298年目
1881
明治十四年
   
光秀三百年忌 299年目
1881
明治十四年
  12月
12月
明田潔、内務省へ申請し明智姓への復姓を認められる
光秀三百年忌 299年目
1884
明治十七年
   
302年目
1884
明治十七年
   4月15日
4月15日
銅版画豆本『新撰豐臣秀吉一代記』出版
302年目
1886
明治十九年
   
304年目
1886
明治十九年
  11月
11月
豆本絵本『太閣記』出版
304年目
1886
明治十九年
   
ダイジェスト版『絵本太閣記』出版
304年目
1889
明治二十二年
   
307年目
1889
明治二十二年
   
陸軍参謀本部『日本戦史』編纂開始 (明治三十四年まで)
307年目
1894
明治二十七年
   
312年目
1894
明治二十七年
   7月
7月
日清戦争勃発 (明治二十八年四月終結)
312年目
1895
明治二十八年
   
313年目
1895
明治二十八年
  10月
10月
朝鮮閔妃暗殺事件
313年目
1898
明治三十一年
   
316年目
1898
明治三十一年
   
豊太閣三百年祭挙行される
316年目
1903
明治三十六年
   
321年目
1903
明治三十六年
  10月
10月
文部省著作の第一期国定教科書『小学日本歴史』で天皇中心主義的歴史観で唐入りを評価した記述がなされる
321年目
1904
明治三十七年
   
322年目
1904
明治三十七年
   2月
2月
日露戦争勃発(明治三十八年九月終結)
322年目
1908
明治四十一年
   
326年目
1908
明治四十一年
   
映画「本能寺合戦」上映
326年目
1909
明治四十二年
   
327年目
1909
明治四十二年
   9月
9月
第二期国定教科書『尋常小学日本歴史』巻二秀吉
327年目
1909
明治四十二年
   
映画「絵本太閣記」上映
327年目
1910
明治四十三年
   
328年目
1910
明治四十三年
   
日韓併合
328年目
1910
明治四十三年
   
映画「太閤記十段」上映
328年目
1911
明治四十四年
   
329年目
1911
明治四十四年
   
参謀本部、本能寺的変を含む『日本戦史 中国役・山崎役出版』
329年目
1914
大正三年
   
332年目
1914
大正三年
   8月
8月
第一次世界大戦へ参戦 (大正八年六月講和)
332年目
1914
大正三年
   
参謀本部、『明治二十七八年日清戦史』『明治三十七八年日露戦史』出版
332年目
1915
大正四年
   
333年目
1915
大正四年
   
秀吉、正一位を贈られる
333年目
1916
大正五年
   
334年目
1916
大正五年
   
高柳光壽、國學院大學史学科を卒業し(大正三年)、東京帝国大学史料編纂掛に勤務
334年目
1921
大正十年
   
339年目
1921
大正十年
   4月
4月
高柳光壽、國學院大學教授を兼任
339年目
1923
大正十二年
   
341年目
1923
大正十二年
   9月
9月
関東大震災
341年目
1926
大正十五年・昭和元年
   
344年目
1926
大正十五年・昭和元年
   4月
4月
高柳光壽、東京帝国大学史料編纂掛編纂官となり、『大日本史料』中世史の編纂を担当
344年目
1928
昭和三年
   
346年目
1928
昭和三年
   
『日本戦史 朝鮮役』出版(これにて日本戦史全十三巻終刊)
346年目
1931
昭和六年
   
349年目
1931
昭和六年
   9月18日
9月18日
柳条湖事件勃発、日中十五年戦争始まる
349年目
1931
昭和六年
   
平泉澄、洋行を切り上げて帰国
349年目
1931
昭和六年
  11月 7日
11月7日
鉄筋コンクリートで大阪城再建され竣工式
349年目
1932
昭和七年
   
350年目
1932
昭和七年
   8月
8月
国民精神文化研究所設置
350年目
1934
昭和九年
   
352年目
1934
昭和九年
   2月
2月
陸軍省軍事調査部、小册子『思想戦』発刊
352年目
1934
昭和九年
   
『尋常小学国史』上巻初版
352年目
1935
昭和十年
   
353年目
1935
昭和十年
   2月
2月
美濃部達吉「天皇機関説」が議会で問題視
353年目
1935
昭和十年
   
『尋常小学国史』下巻初版
353年目
1936
昭和十一年
   
354年目
1936
昭和十一年
   
日本諸学振興委員会設置
354年目
1937
昭和十二年
   
355年目
1937
昭和十二年
   5月
5月
文部省編『国体の本義』出版
355年目
1937
昭和十二年
   9月
9月
内閣情報部発足
355年目
1938
昭和十三年
   
356年目
1938
昭和十三年
   2月
2月
内閣情報部、『思想戦講習会』 第一回開催
356年目
1938
昭和十三年
   2月
2月
日本橋高島屋で第一回思想戦展覧会開催、外務省情報部矢野征記が豊臣秀吉の朝鮮侵略など日本の過去の対外戦争はすべて「日本の防衛のため」と講演 以後、大阪南海高島屋、京都丸物百貨店、福岡玉屋百貨店、佐世保市玉屋百貨店、佐賀市玉屋百貨店、熊本市千徳百貨店、大分市トキハ百貨店、札幌市今井百貨店で八月まで順次開催
356年目
1938
昭和十三年
   5月
5月
日本諸学振興委員会、歴史学会公開講演会開催
356年目
1939
昭和十四年
   
357年目
1939
昭和十四年
   
読売新聞に吉川英治の「新書太閤記」連載始まる(昭和二十年まで)
357年目
1940
昭和十五年
   
358年目
1940
昭和十五年
   7月
7月
第二次近衛内閣、「基本国策要綱」策定
358年目
1940
昭和十五年
   
平泉澄、東京帝国大学助教授就任
358年目
1941
昭和十六年
   
359年目
1941
昭和十六年
   3月
3月
「国民学校令」公布
359年目
1941
昭和十六年
   3月
3月
国民精神文化研究所、吉田三郎著『思想戦 近代外国関係史研究』を刊行
359年目
1941
昭和十六年
   4月
4月
文部省訓令で「臨時国史概説編纂部」が設置され、国体史観に基づく国史概説の編纂始まる
359年目
1941
昭和十六年
   7月
7月
文部省、『臣民の道』編纂刊行
359年目
1941
昭和十六年
  12月
12月
太平洋戦争勃発
359年目
1941
昭和十六年
   
吉川英治『新書太閤記』出版
359年目
1942
昭和十七年
   
360年目
1942
昭和十七年
   1月
1月
マニラ陥落
360年目
1942
昭和十七年
   9月
9月
「マニラ陥落豊太閤奉告祭と祝賀大行進」
360年目
1943
昭和十八年
   
361年目
1943
昭和十八年
   3月
3月
文部省編『初等科国史』
361年目
1943
昭和十八年
   
文部省編纂『国史概説』
361年目
1943
昭和十八年
   8月
8月
教育総監部、下級将校のための教育のために『皇軍史』配付
361年目
1943
昭和十八年
  10月
10月
明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会挙行
361年目
1945
昭和二十年
   
363年目
1945
昭和二十年
   8月
8月
太平洋戦争終結
363年目
1947
昭和二十二年
   
365年目
1947
昭和二十二年
   4月
4月
高柳光壽、大正大学教授を兼任
365年目
1948
昭和二十三年
   
366年目
1948
昭和二十三年
   
高柳光壽、日本歴史学会を創設し、初代会長就任
366年目
1958
昭和三十三年
   
376年目
1958
昭和三十三年
   
高柳光壽著、吉川弘文館『明智光秀』出版
376年目
1963
昭和三十八年
   
381年目
1963
昭和三十八年
   
司馬遼太郎、サンデー毎日に「国盗り物語」連載開始(一九六六年まで)
381年目
1965
昭和四十年
   
383年目
1965
昭和四十年
   
NHK大河ドラマ「太閤記」放送
383年目
1966
昭和四十一年
   
384年目
1966
昭和四十一年
   
司馬遼太郎『国盗り物語』出版
384年目
1967
昭和四十二年
   
385年目
1967
昭和四十二年
   
八切止夫著、講談社『信長殺し、光秀ではない』出版
385年目
1973
昭和四十八年
   
391年目
1973
昭和四十八年
   
NHK大河ドラマ「国盗り物語」放送
391年目
1987
昭和六十二年
   
405年目
1987
昭和六十二年
   5月
5月
国際日本文化研究センター(日文研)設立
405年目
1995
平成七年
   
413年目
1995
平成七年
   4月
4月
第一回土岐一族の集い開催
413年目
1997
平成九年
   
415年目
1997
平成九年
   1月
1月
新しい歴史教科書をつくる会趣意書発表
415年目
1997
平成九年
   
日本会議設立
415年目
1997
平成九年
   
新しい歴史教科書をつくる会設立
415年目
2006
平成十八年
   
424年目
2006
平成十八年
   2月
2月
鈴木眞哉・藤本正行著、洋泉社『信長は謀略で殺されたのか』出版
424年目
2007
平成十九年
   
425年目
2007
平成十九年
   
日本会議事業センター『歴史の書き換えが始まった! コミンテルンと昭和史の真相』 を刊行
425年目
2007
平成十九年
  10月
10月
『明智光秀 四二五年目の真実』脱稿
425年目
2009
平成二十一年
   
427年目
2009
平成二十一年
   3月
3月
明智憲三郎著、プレジデント社『本能寺の変 四二七年目の真実』出版
427年目
2010
平成二十二年
   
428年目
2010
平成二十二年
  10月
10月
藤本正行著、洋泉社『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』出版
428年目
2013
平成二十五年
   
431年目
2013
平成二十五年
   5月
5月
明智一族伝承の会発足
431年目
2013
平成二十五年
  12月
12月
明智憲三郎著、文芸社文庫『本能寺の変 431年目の真実』出版
431年目
2015
平成二十七年
   
433年目
2015
平成二十七年
   7月
7月
明智憲三郎著、幻冬舎『織田信長 四三三年目の真実』出版
433年目
2016
平成二十八年
   
434年目
2016
平成二十八年
   4月
4月
倉山満『歴史戦は「戦時国際法」で闘え』出版
434年目
2016
平成二十八年
   5月
5月
明智憲三郎著、文芸社『「本能寺の変」は変だ! 明智光秀の子孫による歴史捜査授業』出版
434年目
2016
平成二十八年
   6月
6月
『本能寺の変 431年目の真実』四十万部突破
434年目
2016
平成二十八年
  10月
10月
呉座勇一著、中央公論新社『応仁の乱』出版
434年目
2017
平成二十九年
   
435年目
2017
平成二十九年
   5月
5月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第一巻』出版
435年目
2017
平成二十九年
  10月
10月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第二巻』出版」
435年目
2018
平成三十年
   
436年目
2018
平成三十年
   2月
2月
明智憲三郎著、文芸社文庫『「本能寺の変」は変だ!435年目の再審請求』出版
436年目
2018
平成三十年
   3月
3月
呉座勇一著、KADOKAWA『陰謀の日本中世史』出版
436年目
2018
平成三十年
   3月
3月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第三巻』出版
436年目
2018
平成三十年
   4月
4月
明智憲三郎著、幻冬舎文庫『織田信長435年目の真実』出版
436年目
2018
平成三十年
   4月
4月
NHK、二〇二〇年大河ドラマ「麒麟がくる」発表
436年目
2018
平成三十年
   9月
9月
明智憲三郎著、河出書房新社『光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見』出版
436年目
2018
平成三十年
   9月
9月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第四巻』出版
436年目
2019
平成三十一年・令和元年
   
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
   2月
2月
明智憲三郎著、河出書房新社『完全版 本能寺の変 431年目の真実』出版
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
   2月
2月
『私の先祖 明智光秀』細川珠生著、宝島社で「天皇と国を護る正義の闘い」
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
   3月
3月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第五巻』出版、シリーズ累計百万部突破
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
   3月
3月
「正論四月号」で「明智光秀『本能寺の変』は義挙だった」宮崎正弘
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
   9月
9月
明智憲三郎原案・藤堂裕著、秋田書店『信長を殺した男 本能寺の変 431年目の真実 第六巻』出版
437年目
2019
平成三十一年・令和元年
  12月
12月
本書 明智憲三郎著 河出書房新社 出版
437年目
2020
令和二年
   
438年目
2020
令和二年
   1月
1月
NHK大河ドラマで明智光秀が主人公の「麒麟がくる」放送開始予定
438年目