第二回 本能寺の変の動機について

光秀の通説の定番といえば、本能寺の変を起こした動機です。今回は、動機の伝搬が、歴史書、物語類により伝搬していく様子を解説します。

本能寺の変については、発生直後に書かれた『惟任退治記』(天正十年 1582年)から、現在までたくさんの歴史書、物語類に記録されています。今回も「第一回 通説を伝える歴史書や物語類の関係」と同様に、明治以前、昭和以降にわけて見ていきます。

■明治以前までの動機

現代でもよく語られる動機は、明治以前までには固まっていたようです。通説を伝える物語類とその動機をまとめてみると、各物語類が参照した文献の通りに動機が伝わっていることがわかります(図1)。

※『信長公記』は物語ではなく記録です

・初期の物語類での動機の記載は具体的ではありません

『惟任退治記』(天正十年 1582年)、『甫庵信長記』(慶長七年  1612年)では、動機を「怨みを以って恩に報ずるの謂われ、ためし無きに非ず」、「信賞必罰の厳しさ」としており、具体的な動機を物語っていません。

・最初の具体的な動機は川角太閤記

最初に具体的な動機を記載したのは、『川角太閤記』(元和 1615年~1624年)です、参考にしたとされる『甫庵信長記』には動機として、「信賞必罰の厳しさ」が記載されているだけなので、その具体例を探した、または、風説として聞いたのかもしれません。ここでは、「節句の席で恥」、「諏訪で欄干に頭を打つ」、「家康饗応役(罷免・殴る)」、「中国出陣」などの具体的な動機が記載されています。

・動機は引き継がれ、増えていく

各物語類は、参照した物語類から動機を引き継ぐだけでなく、動機が増えていきます。『川角太閤記』の動機が4つなのに対し、『絵本太閤記』は、8つの動機をあげています。

■昭和以降の動機

昭和以降の歴史書では、明治以前の動機を受け継ぎながら、新しい動機が追加されていきます(図2)。

・天下が欲しかった

「天下が欲しかった」を動機としてあげているのは『明智光秀』(高柳光寿 1958年)です。「三日天下」などの言葉があるとおり、やはり「天下」が本能寺の変の動機にあがるのでしょうか。

・四国説

3冊の歴史書があげています。拙著でも、このことについて触れています。

■まとめ

本能寺の変を起こした動機については、各歴史書、物語類の参照関係の通りに継承され、また、動機が追加されて増えていっていることがわかります。また、近年は新聞や、テレビドラマなどで、広く一般の人に知られるようになりました。これが、また動機を増やしているのかもしれません。

2016年には、石谷家文書が発見されました。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』(2009年 プレジデント社)でも、「いつの日か埋もれた記録が見出され、さらに新たな真実が明らかになることを願わずにはいられません。」と書きましたが、まさに埋もれていた記録が発見されました。これらの発見から、あらためて、本能寺の変の真の動機が解明されることを期待しています。

では、また次回。

この解説は、拙著『「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求』をもとに作成したものです。詳しくはそちらをご一読いただけますと幸いです。