第一回 通説を伝える歴史書や物語類の関係

第一回は、光秀の通説の元が記録されている歴史書、物語類の関係について解説していきます。本能寺の変の直後に書かれた『惟任退治記』(天正十年 1582年)から、『信長は謀略で殺されたのか』(平成十八年 2006年)までの13の歴史書や物語類を、明治時代の前までに成立したもの、昭和以降に成立したものに分けて見ていきます。

■明治以前に成立した物語類

明治の前までに成立した物語類は8つです。『惟任退治記』から『甫庵太閤記』までは、本能寺の変から50年以内に成立しています。『明智軍記』以降は、100年を過ぎてから成立していて、『絵本太閤記』にいたっては、200年後の成立になっています(図1)。
特徴的なのは、それぞれの物語類が参照している物語類の関係です。『信長公記』は、『惟任退治記』を参照して書かれ、その『信長公記』は、『甫庵信長記』や『川角太閤記』が参照しています(推定されるものも含む)。ここに出てくる物語類は、全て『惟任退治記』を直接的、間接的に参照しているのです。

※『信長公記』は物語ではなく記録です。

 

■昭和以降に成立した歴史書

昭和以降に成立した歴史書は5つです。『新書太閤記』から『信長は謀略で殺されたのか』までで、本能寺の変から300年以上たった時に書かれたものです(図2)。昭和以降の歴史書は、たくさんの歴史書や、物語類を参考にして書かれているのが特徴です。また、その中で最も多く参照されているのは『川角太閤記』です。『川角太閤記』も『信長公記』、『甫庵信長記』を参照しています。また『信長公記』は、『惟任退治記』を参照しています。結局、ここにあげた全ての歴史書、物語類が直接的、間接的に『惟任退治記』を参照していることになります。

■まとめ

今回は、光秀の通説の元が記録されている歴史書や物語類の関係について見てきましたが、そのすべての歴史書の元となっているのが『惟任退治記』でした。これは、次回説明する「本能寺の変の動機」で重要になってきます。
それでは、次回をお楽しみに。

この解説は、拙著『「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求』をもとに作成したものです。詳しくはそちらをご一読いただけますと幸いです。