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・通説を記録した歴史書・物語類の一覧

本能寺の変の直後に書かれた『惟任退治』(天正十年 1582年)~『信長は謀略で殺されたのか』(平成十八年 2006年)までの13冊の歴史書、物語類を調査しています。元禄年間に成立した『明智軍記』までで通説のネタはほぼ出揃っており、その後はそれらが参照されて使用されています。

書名成立期成立年作者伝搬形態分類参照史料
惟任退治記天正1582大村由己写本・語り・刊本報告書(宣伝書)
信長公記慶長1598太田牛一自筆本・写本記録(惟任退治記)
甫庵信長記慶長1612小瀬甫庵刊本軍記物語信長公記
川角太閤記元和1615~1624川角三郎右衛門写本・刊本軍記物語信長公記、(甫庵信長記)
甫庵太閤記寛永1626小瀬甫庵写本・刊本軍記物語(惟任退治記)
明智軍記元禄~1693(巻五迄)
~1702(完本)
不明刊本軍記物語(甫庵、朝倉始末記他、多数)
綿考輯録延享1746細川家細川家所蔵史料記録明智軍記等、多数
絵本太閤記寛政1797~1802武内確斎刊本軍記物語川角太閤記、明智軍記、陰徳太平記、総見記、老人雑話、豊臣秀吉譜、常山紀談など
新書太閤記昭和1941吉川英治刊本歴史小説(川角太閤記、明智軍記、絵本太閤記、信長公記、甫庵太閤記)
明智光秀昭和1958高柳光寿刊本歴史書惟任退治記、綿考輯録、(明智軍記)、川角太閤記、信長公記など
国盗り物語昭和1966司馬遼太郎刊本歴史小説明智軍記、川角太閤記
明智光秀昭和1973桑田忠親刊本歴史書信長公記、綿考輯録、明智軍記、朝倉始末記、校合雑記、重編応仁記、川角太閤記など
信長は謀略で殺されたのか平成2006鈴木眞哉・藤本正行刊本歴史書高柳光寿『明智光秀』、惟任退治記、本城惣右衛門覚書、(川角太閤記)、イエズス会日本年報など

参照史料:カッコ付は推定、カッコ無は本文に記載あり

・通説:本能寺の変 動機編

各歴史書、物語類の本能寺の変の動機に関する事柄をまとめたものです。

書名(作者)謀反の動機家康饗応役中国出陣愛宕百韻本能寺討入
惟任退治記
(大村由己)
怨みを以って恩に報ずるの謂われ、ためし無きに非ず【怨恨説】軍師として派遣28日下しる(謀反の先兆)
【野望説】
光秀は密かにたくらむ
五人を魁にして取り巻く
明智彌平次光遠・同勝兵衛・同次右衛門・同孫十郎・斎藤内蔵助利三【単独犯行説】
信長公記
(太田牛一)
おびただしき結構秀吉援軍に出陣28日下知る/まつ山流れの末
(池田家本:1610年成立:24日下なる夏山池の流
前夜四人と談合
明智左馬助・明智次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵佐
(池田家本:三澤昌兵衛加筆)
甫庵信長記
(小瀬甫庵)
信賞必罰の厳しさ善尽し美尽し歓待秀吉援軍に出陣28日下しる(隠謀の祈禱)/
まつ山/流れの末
前夜初めて五人
起請文・人質
明智左馬助・同次右衛門・藤田伝五・斎藤内蔵助・溝尾勝兵衛尉『元親記』寛永八年(1631)成立:高島孫右衛門(元親側近)作「斎藤内蔵介は四国のことを気づかって明智謀反の戦いを差し急いだ」
川角太閤記
(川角三郎右衛門)
節句の席で恥
諏訪で欄干に頭を打つ
家康饗応料理腐敗に怒り
家康饗応役罷免と中国出陣
料理腐敗秀吉援軍に出陣28日下しる(悪意)/
まつ山/流れの末
29日西国へ弾薬を先送
前夜初めて五人、起請文・人質
明智左馬助彌平次・同次郎左衛門・藤田傳五・齋藤内蔵助・溝尾少兵衛
乱丸書状で閲兵呼び出し
甫庵太閤記
(小瀬甫庵)
饗応役罷免と中国出陣五月十五日付秀吉書状で援軍要請、合力命令
明智軍記
(不明)
斎藤利三の件で殴る
家康饗応役華美で頭を打つ
饗応役取り上げ・秀吉援軍
近江丹波の領地召し上げ
接待華美過ぎる秀吉より援軍要請27日下しる(時は土岐)/
夏山池の流のどかなる時
坂本城で重臣十名ほど
敵は四条本能寺・二条城にあり
軍勢について詳しい記述あり
綿考輯録
(細川家)
信長が光秀の面目を度々失わせた、我儘な振る舞いのみ有り(光秀の言として)
斎藤利三の件で殴る
饗応役取り上げ・秀吉援軍
武田家内通の発覚恐れ
秀吉より援軍要請28日連歌軍勢を披露するための上洛
絵本太閤記
(武内確斎)
八上城で母殺害(常山紀談1770年成立:初出)
恵林寺焼打ち制して殴られる
斎藤利三の件で竹刀で叩かれる
家康饗応が華美と叩かれる
中国出陣で秀吉指揮下
領地召し上げ
接待華美過ぎる五月十七日秀吉書状で援軍要請28日下しる(時は土岐)/
夏山/池の流/のどかなる時
坂本城で重臣十名ほど
敵は四条本能寺・二条城にあり
軍勢について詳しい記述あり
安田作兵衛障子越しに手応
於能の方、奮戦・討死
弥平次光春、信長首を隠す
阿彌陀寺面誉上人埋葬
新書太閤記
(吉川英治)
諏訪できんかん頭を欄干に
家康饗応料理腐敗と怒る
家康饗応役罷免と中国出陣
中国出陣で秀吉指揮下
料理腐敗28日下しる/
夏山/流れの末/のどかなる時
坂本城で重臣十四名
乱丸書状で閲兵呼び出し
敵は四条本能寺・二条城にあり
阿能局がいた噂
明智光秀
(高柳光寿)
天下が欲しかった(野望)
四国問題で前途悲観
五月十七日秀吉書状で援軍要請28日下しる(時は土岐)/夏山/流れの末前夜に重臣に告げた
極秘にしていた
信長閲兵のための上洛(川角太閤記は誤りも多いが肝要なことをよく捉えている)
国盗り物語
(司馬遼太郎)
金柑頭/義景頭骸骨
斎藤利三の件で殴る
諏訪で欄干に頭を打つ
領地召し上げ
五月十七日秀吉書状で援軍要請28日下しる(時は土岐)/夏山/流れの末二十九日2人
左馬助(弥平次)光春・斎藤内蔵助利三
その後3人
安田作兵衛萎縮、濃姫奮戦・討死
明智光秀
(桑田忠親)
天下盗りの野望はない
八上城で光秀母が磔
四国問題で面子失墜
家康饗応が華美と叩かれる
利三問題で折檻、諏訪で折檻
領地召し上げ、面目潰れた
接待華美過ぎる十五日に秀吉飛脚で援軍要請下なるだったのではないか。案外、秀吉が紹巴に命じて書き換えさせたのでは。五月晦日から六月一日の間
明智左馬助秀満(光春)、同次右衛門、斎藤利三、藤田伝五、溝尾勝兵衛などに打ち明けた
信長閲兵のための上洛
信長は謀略で殺されたのか
(鈴木眞哉・藤本正行)
光秀母磔、接待役解任・中国出陣、領地召し上げは荒唐無稽
高柳四国説、利三問題がからんで遺恨と野望
秀吉から毛利援軍到着の報28日下しる(時は土岐でない。謀反の意思を示すはずがないので)29日弾薬を西国へ先送
前日夜数人の重臣に亀山城で
信長公記の記述を採用、ただし次右衛門は良質史料にない
信長閲兵のための上洛
家康討ちは惣右衛門の誤解
濃姫奮戦の良質史料にない

(注)太字は初出

・謀反の動機

『惟任退治記』の「怨み」の裏付けとなるエピソードを諸書が創作し、現代の歴史書にも引き継がれている。高柳光寿が怨恨を否定して野望を唱え、桑田忠親と論争。藤田正行が両方の中和をとった。
※高柳光寿:東京大学史料編纂所編纂官、國學院大學教授、日本歴史学会創設・初代会長
※桑田忠親:東京大学史料編纂所編纂官、國學院大學教授

・家康饗応役

軍記物語が料理腐敗、接待華美を創作

・中国出陣

『惟任退治記』の「軍師としての派遣」「信長出陣は光秀と相談してから」の記述が無視されている。

・愛宕百韻

『信長公記』池田家本(牛一自筆本)の書き換えが無視されている。『明智軍記』が脇句/第三を修正していることが注目される。桑田忠親は『惟任退治記』を実は8年前に校注しているが、愛宕百韻の初出に気付いていない。

・本能寺討入

『惟任退治記』の記述に小瀬甫庵が尾鰭を付けて「前日夜初めて」を通説にした。『明智軍記』以降は「坂本城で」に変えられたが、高柳光寿が「極秘にするために前夜まで打明けなかった」として戻した。

 

・通説:本能寺の変以外

各歴史書、物語類の本能寺の変以外の光秀に関する事柄をまとめたものです。

書名(作者)光秀出自光秀の子光秀経歴森乱丸の表記家康伊賀越え秀吉の中国大返し山崎の合戦光秀の死坂本城落城
惟任退治記
(大村由己)
森蘭丸三日夜密かに注進
六日昼撤収、七日大雨疾風二十里姫路着
三筋に分けて攻めかかる。光秀破れ、勝竜寺城に立て籠り、夜脱出。討取られた首の中に光秀の首弥平次、安土城を焼いて小舟で坂本城へ
光秀一類刺殺す
信長公記
(太田牛一)
森乱
(森乱丸)
一揆が梅雪生害
甫庵信長記
(小瀬甫庵)
森乱丸一揆は手を出せず
川角太閤記
(川角三郎右衛門)
森お乱
(森乱丸)
三日夜飛脚
四日夜撤収
松山が勝負の分れ目光秀・溝尾少兵衛・小姓の三人がしる谷越え、百姓の槍弥平次、湖水渡りで坂本城へ、光秀の妻・身内を刺殺す
甫庵太閤記
(小瀬甫庵)
三日夜長谷川宗仁飛脚
六日昼撤収
洞ヶ峠で順慶を待つ
二男あこ12歳順慶人質
天王山が勝負の分れ目
小栗栖の藪で槍、少兵衛が介錯左馬助、安土城を焼いて馬で乗り抜けて坂本城、光秀子三人息女三人刺殺す
明智軍記
(不明)
頼兼後裔九代、祖父光継・父光綱・叔父宗宿光安・長閑斎光廉・光久、従兄弟弥平次光春・光忠・光近、信長内所局は、従妹光春妻、
光忠妻、
忠興妻、
信澄妻、
光慶、
十次郎
(順慶養子)、
乙寿丸
道三に仕え明智城落城後、越前称念寺に妻子預け諸国放浪
越前朝倉義景に仕官
鉄砲の腕で手柄
織田信長に招かれて仕官
森蘭丸天王山が勝負の分れ目小栗栖の藪で槍、辞世/55歳、溝尾庄兵衛が介錯光春、安土城を焼いて敵勢と戦って坂本城入城、光秀妻・乙寿丸生害。光慶は亀山城で病死
綿考輯録
(細川家)
頼兼後裔
信長室家に縁
十五郎
(光秀書状)
明智城落城で逃れる
越前朝倉義景に五百貫
越前を去り信長に五百貫
藤孝に信長を推挙、藤孝を信長に紹介
森蘭丸長谷川宗仁より知らせ
六日に姫路着(杉藤七書状)
二男十四郎を順慶養子土民に殺される、57歳左馬助光春、安土城を焼いて切り抜けて坂本城、光秀妻子殺す
絵本太閤記
(武内確斎)
我身は賤しき者なれど土岐伯耆守頼清後胤
父光綱、叔父長閑斎光廉、従兄弟治右衛門光忠・光近
信澄妻、
忠興妻、
光慶、
十次(治)郎、
自然、
女子、
乙寿丸
斎藤竜興に美濃追放・諸国放浪
越前朝倉義景に仕官
越前を去り信長に仕官
義昭に信長を推挙
森蘭丸三日夜光秀密使捕まる
安国寺恵瓊による和睦
五日撤収、六日姫路着
末子乙寿丸を順慶人質
光秀に将軍宣下
順慶が洞ヶ峠で見定め
天王山が勝負の分れ目
小栗栖の藪で長兵衛の槍、辞世55歳、溝尾庄兵衛が介錯左馬助光春、安土城を焼いて湖水渡りで坂本城へ、一族自決、光慶は亀山城で病死
新書太閤記
(吉川英治)
叔父三宅光安・長閑斎光廉、従兄弟左馬助弥平次光春・次右衛門光忠七女十二男
三女忠興妻
森蘭丸梅雪、野武士に殺害三日夜長谷川宗仁飛脚
安国寺による和睦
六日昼撤収、八日朝姫路、一日二十里
十次郎を順慶養子
天王山が勝負の分れ目
小栗栖で槍、辞世55歳、明智茂朝が介錯左馬助光春湖水渡りで坂本城へ、光秀妻や家族を刺殺
明智光秀
(高柳光寿)
土岐の庶流、低い身分
(明智軍記は誤謬充満)
秀満妻、
信澄妻、
忠興妻、
十五郎、
弟が確実
朝倉義景に仕官
越前を去り信長に仕官
義昭の奉行人でもあった(両属)
森蘭
(森蘭丸)
梅雪は一揆に殺害三日夜知らせ
六日午後四時撤収
一日80キロ
天王山は作り話小栗栖で槍、庄兵衛が介錯、55歳安土城焼いたのは信雄
湖水渡りは川角創作
秀満、光秀妻子を刺殺
国盗り物語
(司馬遼太郎)
叔父は光安、従兄弟弥平次光春、濃姫は従妹明智城落城で逃れ、諸国放浪し、越前称念寺、朝倉義景に仕官、藤孝・光秀が義昭救出
信長に売り込んで仕官
光秀・藤孝が義昭と信長を取り持つ
森蘭丸一日二十里小栗栖の藪で槍、55歳
明智光秀
(桑田忠親)
父は名前不明の低い身分。明智直系とは実証しがたい。濃姫と血縁は認めてもよい。利三は妹婿、秀満は従兄弟秀満妻、
光忠妻、
忠興妻、
信澄妻、
十五朗光慶、
十次郎、
自然丸
(定頼)、
乙寿丸
諸国放浪は作り話
明智城落城で逃れ、2年間流浪し朝倉義景に仕官、鉄砲の妙技を披露
藤孝の組下として義昭に臣事、義昭・信長をつなぐため両属
森蘭丸家康襲撃を光秀が命じた三日夜光秀密使捕まる末子乙寿丸を順慶養子
天王山は敗因でない
兵力分散が敗因
小栗栖で竹藪で土民の竹槍、勝兵衛介錯、辞世/55歳秀満は安土城を脱出し秀吉方と戦って坂本城へ。光秀妻子刺殺し切腹
信長は謀略で殺されたのか
(鈴木眞哉・藤本正行)
森乱
(森蘭丸は良質史料になし)
梅雪は田原で土民に殺される三日夜知る(浅野家文書)
六日午後撤収、七日姫路着
山科付近で土民に打たれた、勝兵衛介錯湖水渡りは川角創作

(注)太字は初出

・光秀出自

『明智軍記』の記述が基本的に使用されている。

・光秀の子

『明智軍記』の記述が基本的に使用されている。

・光秀経歴

『明智軍記』の記述が基本的に使用されている。

・森乱丸の表記

『惟任退治記』の記載を『明智軍記』が採用して通説に。

・家康伊賀越え

又聞きに過ぎない『信長公記』の記述が通説に。

・秀吉の中国大返し

江戸時代には撤収日は諸説あり。秀吉が書かせた『惟任退治記』の記述を高柳光寿が採用して現代の通説とした。

・山崎の合戦

諸書が創作。

・光秀の死

小栗栖は甫庵の創作、辞世55歳は『明智軍記』の創作

・坂本城落城

左馬助湖水渡りは川角の創作、光春は『明智軍記の創作』。『絵本太閤記』『新書太閤記』が採用して通説に。
秀光や光秀妻子の死を目撃しいた証人は誰もないはずであり真相は?

 

この資料は、拙著『「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求』をもとに作成したものです。詳しくはそちらをご一読いただけますと幸いです。